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近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)>
現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

北九州市小倉北区編

白洲灯台(同左)
小倉北区藍島沖 明治6年(1873)
石造灯台 R・H・ブラントン/不詳
/07.6/国/交通施設(同左)
 こんな写真じゃ分からん、といわれればまさしくその通りではあるのですが、この灯台を見学することは、全く至難の業です。定期航路または近くを通るコースと言ったものが無いからです。
 釣り人にとっては有名なポイントのようです。また近年では「二階堂」のCMにも採り上げられ有名になりました。元は明治初期の庄屋が私設の灯台を設置した位置に国が改めて石造りの灯台を建造いたしました。ブラントン灯台のひとつです。もう少し見学しやすい場所にあれば、こんな写真を使うこともないのでしょうけど、、(41.)

旧手向山砲台施設(同左)
小倉北区大字赤坂 明治21年(1888)
煉瓦造施設 不詳/不詳
/05.3/北九州市/静態保存(軍事施設)
 小倉の中心部からほど近い手向山の屋上部には、明治期の軍事施設が遺っています。現在は公園の中にあって、その施設の一部が保存されています。
 横穴式の兵舎壕や弾薬壕などは、他の明治20年代軍事施設と変わりませんが、公園内に散在するその残り具合は特徴的なものがあります。道路に半分埋まった形の兵舎壕を見ると、時代の流れを感じずにいられません。(現地調査.)

旧手向山砲台変電所(同左)
小倉北区大字赤坂 明治21年(1888)
木造/平屋建 不詳/不詳
/05.3/北九州市/静態保存(軍事施設)
 手向山公園駐車場の片隅に唐突に保存されている煉瓦建築。背面に煙突が取り付けられていることから、火葬場ではないかと長年いわれていましたが、近年では変電所という説が最も有力な施設となっています。
 明治期の軍事施設は情報がなかなか分からないものが多く、このような現物が残されている施設でさえ、正確な用途が分かりません。軍事史跡は今後各種学会での調査が必須の分野のひとつです。(現地調査.)。

旧岡田医院(旧小倉県庁? 小倉警察署)
小倉北区室町二丁目 明治23年(1890)以前
木造瓦葺/2階建 不詳/不詳
(改築:白水碩次郎/原田留造)
/02.9/民間/病院(公共機関)
 リバーウォーク北九州の向かい側にあって、静かにたたずむ洋館。この建物の竣工年代に関しては、郷土史会と建築サイドで全く異なりましたが、棟札の発見によって謎は大きく前進。北九州最古級の擬洋風建築であることが判明いたしました。和小屋組の天井裏には、かつて有った火ノ見台への階段が一部残存しています。屋根材が改修され、商業施設としてオープンを予定しています。
 建替サイクルの早い商業都市にあってただ1棟気高く遺っている姿は、尊敬の念を抱かずには居られません。(8.41.現地調査.)

JR九州小倉工場倉庫(貨車修繕工場)
小倉北区金田 明治24年? 大正7年?
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
/05.5/国/交通施設(同左)
 JR日豊本線側から見える煉瓦造りの建物。建物妻部の意匠から考えると、どう見ても明治期のものと考えることが妥当ですが、工場側所有の財産表によりますと、大正7年竣工とのこと。これはとまどってしまいます。
 竣工年代の是非はともかくとして、現在は倉庫として使用されていますが、元々は貨車の修繕工場として使用されていた建物です。ここ北九州は筑豊炭田を背後に控え、貨車の保有台数もかなりのものがありました。そんな貨車のメンテナンス設備は確かな需要であったわけです。地域色あふれる遺構といえます。(41.)

北九州市森鴎外旧居
小倉北区鍛冶町一丁目 明治30年?
木造/平屋建 不詳/不詳
市指定有形文化財/02.9/北九州市/静態保存(住宅)
 森鴎外が軍医として小倉に赴任した時の、最初に住んでいた建物です。何人かの手に渡り民家として使用され、現在は市の所有となり記念館となっています。典型的な日本家屋のひとつです。森鴎外はこの家から馬に乗って小倉城址にあった軍師団施設へ移動していたとのこと。
 周囲は小倉繁華街の一角にあり、呑み屋などが林立しています。ここの周囲だけが別世界のようで、往時の小倉の雰囲気を残しているのではないでしょうか(8.)。

旧東京製綱小倉工場事務所(同左)
小倉北区高浜一丁目 明治39年(1906)
煉瓦造/2階建 不詳/清水組
/04.2/東洋製綱?/事務所(同左)
 赤煉瓦の明治建築と見て分かるだけの説得力を持った建物です。明治39年に小倉に進出、工場を建設しましたが、先年撤退されました。しかしそのために工場の高い塀も取り払われ、このような見目良い建物が明らかになりました。
 現在設備の大方は取り払われ、同時期に造られたと思われる倉庫とこの事務所が現存しています。国道199号線沿線はこの建物から門司方面にかけて古い工場建築が多く、ドライブにお薦めです。(4.5.8.)

旧東京製綱小倉工場倉庫(同左)
小倉北区高浜一丁目 明治39年(1906)
煉瓦造/平屋建 不詳/清水組
/04.2/東洋製綱?/倉庫(同左)
 単なる倉庫だと言えば、それまでですが、門司港地区などによく見られる煉瓦構造にモルタルが塗ってあるような小細工は一切無く、煉瓦そのものの持ち味を十分に生かした作品に仕上がっていると思います。
 東洋製綱は小倉工場の撤退を発表後、その後の跡地利用に関しては明らかにしていません。かなりの敷地面積を持ち、なおかつこのような見目よき近代化遺産を持っていることから、今後どのような活用方法を考えているのか、注目の集まるところです。(4.5.8.)

陸軍第十二師団正門(同左)
小倉北区城内 明治期
煉瓦造門柱 不詳/不詳
/05.2/国?/静態保存(軍事施設)
 小倉城のボリュームから考えると、ここにあること自体がもはや不自然としか言いようのない作品。陸軍施設として使用されていた時期の門柱であったとのこと。それにしては、門柱の丈が低いことが気にかかります。これは何か原因があってのことなのでしょうか。悩ましい限りです。
 明治期軍都として栄えた小倉ですが、現在それを偲ばせる遺構は数少なく、そんな中でこの門柱は貴重な文化遺産といえます。公園内に有るので、もう少しわかりやすい解説板などがあると良いのでしょうけど。(41.)

住市商店(同左)
小倉北区魚町二丁目 明治期
木造/2階建 不詳/不詳
2005年解体/05.9/民間/商業施設(同左)
 解体直前に話を伺い、急遽見学した建物。小倉の商店街中心部にこのような建物が遺っていたとは、びっくりと言った状態でした。間口の広い商家建築として大変貴重な造りでした。一階部分は改装を受けておりますが、内部は明治期の商家そのままの雰囲気を持ち、天井や壁、二階の等から見える箱庭など見るべきものは数多くありました。
 これが阪神圏であれば、商業施設などに再活用も出来るのですが、北九州ではそのような文化は未だ育っていないようです。かくして建物は解体され、現在はビルが建っています。残念です。

JR九州小倉工場自動バネ検修場棟(旧鉄道院鍛冶場)
小倉北区金田 大正2年(1913)
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
/03.10/JR九州/工場(同左)
 黒ずんだ煉瓦の重みが感じられる、どっしりとした建物です。残念ながら天井部分はトタンに覆われており、現役工場施設としてそれ相応の変更が行われたのではないかと推測できます。この建物の奧にはかつて給水塔が残っていて、工場操業当初からの遺構ではないかといわれていましたが、残念ながら今は取り壊されてしまいました。
 工場見学の際にしか間近で見ることは出来ません。見て分かる様に当日は車が立て込んでしまいますので、なるべく公共交通機関で訪れる方がよいでしょう。(5.8.)

JR九州小倉工場鉄工改造場(旧鉄道院ホ釘工場)
小倉北区金田 大正3年(1914)
煉瓦+鉄骨造/平屋建 鉄道院九州鉄道管理局/清水組
/03.10/JR九州/工場(同左)
 赤くペイントされた鉄骨が妙に目立つ建物です。工場建築はしばしばその用途を少しずつ変化させながら後世に受け継がれていますが、これもその代表的な例のひとつでしょう。天井や窓に大きな変更が行われていると想定されます。
 国道からも見えるこの建物も、しっかりと近場で観るためには年一回の工場見学を狙うほかありません。工場という、ある種外部から閉鎖されている空間だからこそ、かえって色々な建物が残りやすい条件が自然と整っているのだと言えます。(5.8.)

陸上自衛隊九州補給処城野支処(旧陸軍倉庫)
小倉北区片野新町3丁目 大正3年(1914)
造/2階建 不詳/不詳
/03.10/JR九州/軍事施設(同左)
 JR城野駅からすぐの位置には、自衛隊の補給施設があります。この施設はその施設内に遺されている戦前期からの倉庫施設です。
 戦前期の用途については私の手持ち資料から、残念ながら詳しいことは分かりません。戦後には進駐軍の所轄施設となっており、朝鮮戦争時には遺体安置場として使用されていたそうです。
 現在も自衛隊の施設として使用されているため、残念ながら公開などの予定はありません。ただ、こういった施設があることを、地域に住む人間のひとりとして、決して忘れてはならないのだと思います。

ダイソー(大阪曹達)小倉工場倉庫(旧大阪曹達工場倉庫)
小倉北区高見台 大正4年(1915)?
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
/04.3/ダイソー/工場(同左)
 現役の工場施設として稼働を続けている、ダイソー小倉工場の一角にある施設。工場操業時からのものとして一部解体されたものの、現在も保存されています。写真は一部解体前のものです。
 ダイソー工場内には、この他にも、守衛所や事務所施設など、小倉都心部に極めて近い地区にあって古い施設が今も数多く遺されています。最寄り道路はかつて西鉄電車の専用線で、工場創業当初は路面電車は工場の化学物質による公害で苦しんだとのこと。最も現在ではそんなことはありません。鉄道史跡の見学コースと組み合わせてこちらを見るのもいいでしょう。

旧小倉鉄道東小倉駅階段口(同左)
小倉北区高浜一丁目 大正4年(1915)頃?
石造階段 不詳/不詳
/04.2/JR九州/静態保存(交通設備)
 松柏園ホテルのほぼ向かい側、小倉北区の中でも鉄道沿いにありながら余り交通の便が良くない地区に位置する施設です。かつては、ここに私鉄・小倉鉄道の始発駅「東小倉駅」がありました。
 この階段は、東小倉駅に続く通路の一部として作られた施設です。小倉鉄道が国有化され、また路線が変更されたことに伴い東小倉駅の旅客機能が小倉駅に移行した結果、この階段が現在使われることはなくなりました。しかし、かつて鉄道駅があったことを階段は物言わず、雰囲気のみで私たちに伝えてくれます。(41.)

湖月堂赤煉瓦館(旧湖月堂酒類倉庫)
小倉北区京町二丁目 大正7年(1918)
煉瓦造/3階建 不詳/不詳
/03.10/湖月堂/店舗(倉庫)
 乗降客数九州第二位の小倉駅前、その直近にあるアーケード(しかも駅から歩いて1分の地点)に倉庫があったというところを疑問に思う方がいるかもしれません。しかしこの小倉駅は昭和30年代に移転してきたものであることを考えると、宜なるかな、と納得頂けると思います。
 アーケードに隠れていますが、3階建ての建物で、元々は地元菓子屋が行っていた卸業のお酒取り扱い倉庫、近年は所有はそのままに飲食店として再生されています。都市近郊の産業遺産再生例として、身近な建築となっています。(a.)

新日本製鐵紫川取水場ポンプ室(同左)
小倉北区木町二丁目 大正7年(1918)
煉瓦造/平屋建 不詳/鴻池組
/04.3/新日本製鐵/ポンプ場(同左)
 都心部にあって一見すると教会か倉庫のように見えてしまう建物ですが、隣接する紫川のポンプ場として、まだ市街がスプロールをおこす以前からたたずまいを保ちつづけています。
 写真後ろ側(大通りに面していない方)は増築の跡が見られますが、全体のスケール変更点はそのくらいだと思われます。近年窓サッシの変更が行われ、外見のイメージが少々見劣りする結果となってしまいました。(5.8.)

櫓山荘公園(櫓山荘野外ステージ)
小倉北区中井浜 大正9年(1920)
煉瓦造他 不詳/橋本組(大阪)
/06.4/北九州市/余暇施設(同左)
 住居「櫓山荘」の附属ステージ施設として作られた設備ですが、写真を見ただけでは、何の用途で作られた施設かは分からないかと思います。元々あった家自体がかなり大規模なものでしたから、ステージという名にふさわしく、公園としてもかなり広くとられています。
 ここ櫓山荘は、所有者の橋本豊治郎が九州専門学校(現在の九州工業大学)の建設に従事するため建てられた住宅で、後に別荘として使用されたましたが、高度成長期に取り壊されてしまい建物を見ることは出来ません。ステージを含む周辺は公園として整備され、往時をしのぶことが出来ます。(41.)

旧小倉陸軍造兵廠防空監視哨(同左)
小倉北区大手町 昭和初期
鉄筋コンクリート造 不詳/不詳
/05.3/民間?/道路橋(同左)
 病院の片隅に唐突に保存されているコンクリート構造物。その用途は戦時中の防空用監視施設で、小倉造兵廠工場屋上部より移設されたものです。近接した位置に、かつて造兵廠の給水塔がありましたが今はなく、縮小復元されたレプリカが隣接した公園に遺されています。
 こうやって現物を見てみると、さすがに唐突さは否定できませんが、わずかながらも造兵廠の歴史を語る施設を遺そうという姿勢に素直に敬意を表したいと思います。

ダイソー小倉工場事務所(大阪曹達小倉工場)
小倉北区高見台 昭和初期?
木造/2階建 不詳/不詳
/06.4/ダイソー/工業施設(同左)
 かつては正門に面した工場事務所として建てられたことは間違いない施設。現在は関連会社の事務所が入っている模様です。階段室の大胆な窓配置や複雑な立面構成は、他の工場事務所ではなかなか見られない、特殊な事例といえます。
 化学工場は取材が難しいと言うことと、執筆者不在という二重の問題が災いし、『北九州の近代化遺産』では建物ひとつひとつの詳細に触れることが出来ませんでした。そういった意味では悔いの残る建物です。再チャレンジしたいですね、、。(41.)

レイメイ藤井事務所(小倉造兵廠施設)
小倉北区大手町 昭和初期
鉄筋コンクリート造/3階建 不詳/不詳
2002年頃解体/01.11/民間/事務施設(軍事施設)
 小倉造兵廠時代の施設としては、往時の雰囲気を最もよく遺していた施設、と言われていた施設でした。屋根構造が少し特殊で、これは機能によるものなのか、それともデザイン上のものかははっきりしていません。小倉造兵廠は戦時中の施設ではなく、関東大震災を期に首都圏に集中していた軍需工場群を分散した中のひとつなので、それぞれに気合いが入った建物も多く造られていたものと思われます。この建物もそれらの内のひとつだったのでしょう。
 建物自体は駅前の再開発事業に伴い解体、現在では弁護士会館とコンビニが建っています。後から考えると、意外と奥行きの深い建物であったのでしょう。つくづく、一度内部を見たかった、と言わざるを得ません。(41.)

室町館(不詳)
小倉北区室町二丁目 昭和初期?
木造/2階建 不詳/不詳
2003年頃解体/02.9/民間/商業施設(同左)
 現在のリバーウォーク真正面側にあったビアホール。見たところ小倉室町が一番の繁栄を迎えていた戦前期、あるいは戦後初期の作品ではないかと推察いたします。ただ、解体された今となっては調べようもないところですが。
 跡地には現在西日本最高峰の高層マンションの建設予定があります。その影響もあった取り壊されたのでしょうか。それにしては、つくづく雰囲気の良さそうな空間が失われたことは、残念と言うほかありません。

JR九州小倉工場事務所棟(同左)
小倉北区金田 昭和5年以前
鉄筋コンクリート造/3階建 不詳/不詳
/05.6/JR九州/事務施設(同左)
 JR小倉工場を見学する際、どうしても煉瓦造りの建築ばかりに目を奪われがちですが、鉄筋コンクリート造りの建物にも見るべきものが多く、この事務所棟はそれらの中でも、特に時代性を感じる施設です。壁面部分に梁構造が突出しているのは、将来増築することをふまえての造りと考えられますが、建物のサイズが後のオフィス建築にそぐわなくなっていった結果、この配慮は無駄なものとなってしまったようです。
 現在も事務所棟の一部として使用されていますが、解体の可能性も依然高いと言えます。調べる必要がありそうです。(41.)

米七ビル(同左)
小倉北区魚町一丁目 昭和9年(1934)
鉄筋コンクリート造/3階建 不詳/不詳
/05.9/民間/商業施設(同左)
 小倉中心部の商店街にあって、アーケードからは見えない近代建築です。アーケード正面部分は大きく改装されているため、往時の姿を知ることは難しいですが、側面からは、派手ではないものの味のある「近代」の色を知ることが出来ます。窓の上下に施された串歯状の飾りや、軒部分の伸び上がるような装飾は、なかなかのインパクトです。
 近年次々と建物が消えつつある小倉中心部にあって、貴重な建物といえます。活用され続けている間は心配ないですが、いざ解体、の時に備えて、記録調査くらいは行っておきたい、渋い遺産のひとつです。(41.)

旧小倉玉屋(菊屋百貨店)
小倉北区室町一丁目 昭和10年(1935)
鉄筋コンクリート造/五階建
(地下一階、増築後八階建)
不詳/金子組
2002年解体/00.12/小倉玉屋/百貨店(同左)
 九州の老舗百貨店では操業当時の姿を留めている唯一の建物でした。井筒屋や岩田屋、福岡玉屋では大規模な外部改修が行われ、まさにここだけが“九州のハロッズ”と称されるようなたたずまいを誇る、孤高の百貨店と言えます。創建当初は五階建てでしたが、後年に改修が行われていますが、これはデザインの違うので、この写真からでもすぐに分かるかと思います。
 リバーウォーク建設に伴い、一部敷地が重なったため撤去。現在その痕跡を探る事は出来なくなってしまいました(5.8.)。

西南女学院ロウ講堂(同左)
小倉北区上到津一丁目 昭和10年(1935)
鉄筋コンクリート造/平屋建
(一部2階建)
W.ヴォーリズ/竹中工務店
/04.3/西南女学院/講堂(同左)
 小高い丘の上に立ち、簡素な白い外壁は清楚感を醸し出しています。とはいえ全く装飾性がないかといえば、ファサードには幾何学系の模様が施され、造りの丁寧さとセンスを現代の私達にも感じさせます。戦時中はその眺望の良さゆえに軍事関係の施設として用いられたこともあるようです。
 近年北九州の教会建築は次々と建て替えられていき、その痕跡を辿ることが困難になっていきつつありますが、その中でこの建物はただひとつカトリック系教育機関の誇りを今に伝えています。

到津の森公園子どもホール(旧到津遊園子供ホール)
小倉北区上到津四丁目 昭和11年(1936)
鉄筋コンクリート造/2階建 不詳/間組
/02.5/北九州市/用途不明(ホール)
 到津遊園は昭和7年に開設された北九州地域最初の遊園地併設型動物園でした。ちょうど小倉と八幡両中心街の中間にあり、都市型テーマパークの走りと言うべきコンセプトでしたが、平成12年経営難のため閉鎖。現在は市営動物園となっています。
 この長円型の施設は以前は鳥類の見学施設として利用されましたが、雨天時の研修施設として改装され今も活用されています。。玄関脇の丸窓は九大農学部6号館などに類似型が見られるちょっとしたアールデコ様式です。(5.8.間組百年史.)

小倉ワシントンビル(かねやす百貨店)
小倉北区 昭和11年(1936)
鉄筋コンクリート造/7階建 不詳/不詳
/06.1/民間/商業施設(同左)
 小倉の中心部、かつては西鉄路面電車北方線が走っていた道路沿いにある建物。現在でこそファサードが改修を受け、古さを感じることは難しいですが、かつては小倉の百貨店業界で井筒屋としのぎを削っていた「かねやす百貨店」の新館として建てられた施設でした。
 九州でも稀少な戦前期竣工の百貨店建築です。現役のビルであることも確かに重要ですが、屋上部に防空監視哨が現存することなど、当時の時代背景を色濃く遺した建物であることもとても貴重な建物です。側面からは、アールをとったリズミカルな壁面構成を見ることが出来ます。見れば見るほど、愛らしい建物と思うのは、私だけでしょうか。(41.)

寿橋(同左)
小倉北区堺町二丁目 昭和12年(1937)
石造アーチ橋 不詳/不詳
/03.12/北九州市/道路橋(同左)
 紫川に比べると少し淋しげな砂津川に架かった橋です。欄干は改修が施されているものの、側面の装飾は現在北九州市ではお目にかかれにくい、ロンバルド帯を持った落ち付いたデザインです。
 戦後の開発にまみれることなく、また近年の河川改修によって取り壊されることもなかったのは、ひとえにこの川が都市の生活部分に近接していたからでしょう。最近紫川にできた橋よりもこちらに親近感を覚えるのは、私だけではないかと思います。近くには旧小倉市の紋章をデザインに用いた水道橋(戦後竣工)もあり、こちらも必見です。 

ワイ・イー・テック小倉工場(小倉造兵廠施設)
小倉北区 昭和戦前期
鉄骨造/平屋建(当初) 不詳/不詳
/06.9/ワイ・イー・テック/工業施設(同左)
 一棟はトタン貼りに仕上げられていることから、非常に年代が読めない状況となっていますが、小倉造兵廠の施設として使用されていたことは間違いありません。鉄サッシで広くとられている窓周りは、鋸屋根に出来なかった(または、しなかった)建物の採光目的のためには必須不可欠なものでした。
 現在は安川電機の関連会社が、やはり工場施設として大切に使用されています。会社の遺産に対する理解の深さには、つくづく頭が下がります。(41.聞き取り.)

日本基督教団小倉日明教会(同左)
小倉北区日明二丁目 昭和16年?(1941)
木造/平屋建 不詳/不詳
/05.5/宗教法人/宗教施設(同左)
 電車通り沿いにある雰囲気の良い洋館。詳しく調べる時間が欲しい建物のひとつですね。北九州市周辺でも生活感のある建物が消え続ける中、数少ない近代教会建築のひとつとして、今後価値が高まることは間違いありません。ポイントは非対称の平面構成と生活道路に面した玄関ポーチにあるといえます。腰壁につけられた下見板にも好感が持てます。
 たたずまいから察するに、潮見長彦氏の関与があるものと考えられます。建築史系の方、一回調べてみませんか?(41.)

D51−542号機関車(同左)
小倉北区金田 昭和16年(1941)
テンダ型機関車 不詳/鉄道省小倉工場
/05.6/JR九州/交通設備(同左)
 まっぷたつに分断されてしまっている機関車。これは別に解体予定がある、ということではなく機関車の構造を見学者に知ってもらいたいという、JR九州側の意向によるものです。確かに、実物の断面図を見ることほど構造を理解するに確かな方法はありませんが、、、なんだか、ちょっと悲しくなります。
 D51型のなかでもここ小倉工場で作られた機関車で、この地に保存されていることがより価値を生み出している好例と言えます。末永く健在であってもらいたい遺産でしょう。(41.)

大成旅館(大成館)
小倉北区京町一丁目 昭和戦後初期
木造/3階建 不詳/不詳
/05.10/民間/商業施設(同左)
 小倉京町の商店街内に密やかに遺る木造三階建建築。外装材は近年改修を受け、また窓周りは明らかな改装の跡が見られることなどから、ちょっと年代が読めません。しかし、戦後すぐくらいの建物ではないかとにらんでいます。
 よく見ると、建物の三階部分が二階よりも若干引っ込んだ形で作られています。これは三階部分の加重を下の階で持たせづらいときにとる手法のひとつで、民間による木造総三階建ての技術が確立するまではこのような建て方が自然であったようです。この建物が技術的な問題でセットバックしているのか、それとも経済的な事情によるものなのかは分かりませんが、見れば見るほど技術史の系譜を知ることの出来る、味のある施設といえましょう。 

旧朝日新聞西部本社(同左)
小倉北区砂津一丁目 昭和戦後期
鉄筋コンクリート造/4階建 不詳/不詳
2004年頃解体/02.6/朝日新聞/事務施設
  新聞社は戦前期の北九州工業地帯、その中心都市のひとつであった小倉が持っていた情報発信基地といえます。朝日新聞もそれらのひとつで、写真に撮った棟は、おそらく戦後期のものです。
 大阪朝日新聞九州支社は昭和12年に門司から小倉の砂津へ移転しました。角部にあるこの施設がその当時の施設とは考えづらいですが、敷地内には当時からのものと思われる構造がちらほらあったように記憶しています。
 やはり、失われた建物のことを語るのは、つらいですね。(41.)


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